「監視社会」の光と陰

写真:田畑 暁生
誰がどこで見ているか分からない時代の企業・自治体の対処法 2005年9月
田畑 暁生/神戸大学 発達科学部 人間表現学科 助教授
防犯カメラの設置が全国の様々な施設で進んでいる。映像による監視にとどまらず、例えばクレジットカードの利用履歴などからも人々の行動を捕捉することが技術的には可能となっている。こうした状況は社会にどんな影響を及ぼすのか、安全とプライバシーをどう両立させるべきなのか。そして、企業や自治体はどう対処すればよいのか。「監視社会」における組織のあり方を展望する。

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プロフィール

1965年東京都生まれ。89年東京大学経済学部経済学科卒業。96年5月同大学院社会学研究科(社会情報学)博士課程単位取得退学。96年7月神戸大学着任。講師を経て現在に至る(同大学院総合人間科学研究科兼任)。
主な著作に『映像と社会―表現・地域・監視』(北樹出版)『情報社会論の展開』(同)『メディア・シンドロームと夢野久作の世界』(NTT出版)『監視ゲーム―プライヴァシーの終焉』(翻訳:アスペクト)『知識の源泉―イノベーションの構築と持続』(翻訳:ダイヤモンド社)『ネット空間と知的財産権―サイバースペースの存在論』(翻訳:青土社)『監視社会論の射程』(論文)『管理社会論と情報社会論』(同)など

「監視社会」というイメージ

「監視社会」という言葉が最近よく使われている。日本で誰が最初に言い出したのかははっきりしないが、英語の「Surveillance Society」を最初に使った論文は、社会学者ゲイリー・マルクスの1985年のものであるようだ。

監視社会のイメージが広まるのに、特に影響を与えた本が2冊ある。
一つはジョージ・オーウェル『1984年』である。1948年に執筆されたこのSF小説でオーウェルは、随所に置かれた監視・傍受メディア「テレスクリーン」を使う独裁者ビッグ・ブラザーによって一般の人々が見張られ、自由を奪われるディストピア※1を描いた。主人公のウィンストン・スミスは、歴史を改ざんする仕事に従事していたが、禁止されている日記をつけていたために、当局によって逮捕され、拷問を受け、最後にはビッグ・ブラザーを愛するようになってしまうのだ。

もう一つは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『監獄の誕生-監視と処罰』(1977年)である。この本の中でフーコーは、イギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した、一望監視型刑務所「パノプティコン」を取り上げた。パノプティコンでは、中央の監視塔から牢獄を監視することができるが、牢獄の側からは監視塔の様子は分からないため、囚人は、監視塔の中に人がいなくても常に「監視されているかもしれない」と感じ、馴致されるという趣旨であった。近代以前の刑罰は、直接に身体を傷つけるものであったのに対し、近代の刑罰においては馴致する「生かす権力」の方へと移ったとするものである。この本の中ではフーコーは、監視社会という言葉を使っているわけではないが、後になって、「近代はこうした一望監視的な社会である」と述べている。

「ビッグ・ブラザー」や「パノプティコン」というのはイメージを喚起しやすいため、監視社会論の多くにはこうした比喩的な表現が出てくる。

新たな監視メディアが出現したり、新たな立法等がなされるにつれて監視社会論の文献や、それへの言及も増えてきた感がある。具体的に言えば、監視カメラの増加、インターネットにおけるクッキーなどの閲覧者把捉技術、Nシステム(自動車ナンバー読み取りシステム)、携帯電話へのGPS機能の搭載、通信傍受法の制定、住民基本台帳ネットワークの出現、などだ。食品の履歴表示や、廃棄物の管理に利用が始まっているICタグも、物の流通経路を監視する意味で一つの監視技術と言える。店舗内での商品にICタグを張りつけておくことは、消費者行動の監視に当たるとして、プライバシー侵害のかどで批判する運動も米国等では起こっている(例:CASPIAN※2)。特に監視社会という表現が頻繁に言われるようになったのは2001年9月11日の米国同時多発テロ以降だろう。米国がテロ対策を強化し、その一環として社会の監視を強めたことが大きな要素である。例えば2004年1月から米国では入国管理にバイオメトリクス(生体認証=身体的特徴を用いた個人認証)を使っており、EU諸国に続いて日本でも導入が決定した。

※1 ユートピアの対義語。
※2 Consumers Against Supermarket Privacy Invasion and Numbering。米国の消費者団体。2003年3月にはベネトン社のICタグ実証実験を不買運動で中止に追い込んだ。

ジェレミー・ベンサムによる一望監視型刑務所「パノプティコン」の構想図


「監視社会」への懸念が強まる背景

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「監視」を軸にした4つの社会類型

監視社会論の多くは、権力を持つ者(や組織)によって、権力を持たない人々が監視され、自由を失うのではないかとの観点に立っている。

ここで、権力と情報流通という観点から、社会の単純な類型化を行ってみよう。もちろん実際にはこのような純粋型はあり得ないのだが、一つの思考実験である。

権力を持つ者が権力を持たない人々の情報を集め、監視を行う。これがいわゆる「監視社会」のイメージであろう。

それに対して、権力を持たない人々が権力側を監視し、権力側は監視を行えない社会。これはよく言えば民主的な社会であり、悪く言えば犯罪やテロの温床ともなり得る社会と言える。

権力を持つ側も持たない側も、いずれもどんな情報も集められる社会。言い換えるとどのような情報もオープンにされている社会。これは、米国のSF作家デヴィッド・ブリンが提唱した「透明な社会」に当たる。
権力を持つ側も持たない側も、いずれの情報も秘匿される社会。これはいわば「秘密社会」と言えるだろう。

監視社会論の第一人者であるデヴィッド・ライアンも強調していることだが、監視は悪い面ばかりではない。むしろ、監視によるメリットがあるからこそ、監視は簡単にはなくならない。その最たる面が安全の確保であろう。監視社会の光の面である。

「監視」を軸にした4つの社会類型

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電子化によって拡散する監視主体

監視社会という言葉の出現は近年だが、監視そのものは歴史が古い。近代の官僚制の出現とともに監視社会が始まったとする論者もいるし、その淵源はさらにさかのぼることもできる。

しかし、現代の監視には重要な特質がある。それは監視の電子化、情報化である。その意味では、前項で述べた「権力を持つ者が持たない者の情報を集める」だけの監視社会とは、変質した面がある。

電子化された監視は、ベンサムの設計したパノプティコンと違って、監視空間が脱空間化し得る。監視塔に限らず、どこからでも監視が行われる。監視の主体もまた拡散可能である。独裁者が一人で監視をしているのではなく、さまざまな主体が、さまざまな場所で監視を行えるのである。マーク・ポスターが「スーパーパノプティコン」、ジグムント・バウマンが「ポストパノプティコン」と呼ぶのも、このような事象を念頭に置いてのことだろう。

既存の監視社会論の多くでは、「権力を持つ側」が「権力を持たない側」を監視し、自由を奪うと考える点について共通の視点を持っている。しかし大きく分ければ、特に「国家による監視」を問題にするものと、「企業による監視」を問題にするものとがある。前者を「ビッグ・ブラザー」による支配と呼べば、後者は「ビッグ・シスター」と表現される。前者の監視社会論は自由主義や無政府主義と結びつきやすく、後者は社会主義や市民主義と結びつきやすい。

しかし、監視の主体が拡散し、複数化するとすれば、ビッグ・ブラザー、ビッグ・シスターよりむしろ「リトル・ブラザー」「リトル・シスター」と言えるのではないか。既にこのような表現も一部で使われている。

確かに、必ずしも公権力でなくても、例えば町内会が独自にゴミ捨て場に、商店街がアーケードに、監視カメラを設置する事例は多い。コストが安価になればこうした傾向に拍車がかかるだろう。

また、電子化された監視は、集められた情報の分量が膨大になると、人間がリアルタイムで解釈し得る分量を容易に超えてしまう。となると、監視の直接の主体が人間よりむしろ機械になるだろう。例えば膨大なメールをキーワードや構文解釈によって分類したり、監視カメラの捉えた映像を画像認識処理を使って、怪しい人物や犯罪を特定したり、というふうに。現場に残された人体片からのDNAの分析などは、人間の肉眼では初めから不可能である。

つまり、電子化された監視の時代には、監視の主体が多数になり得ること、そして、その解釈が人間を迂回して機械によって行われる可能性があること、この二つが大きな特徴と言える。

「監視社会」の変質

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監視をどこまで認めるか

監視が拡散すると、人々の「監視したい」もしくは「監視されたい」という欲求にも火がつくのかもしれない。インターネットには、自分の生活をあからさまに晒すようなホームページが少なからずあり、また、『ビッグ・ブラザー』『サバイバー』といった、24時間の生活をあけすけに晒すテレビ番組(「リアリティTV」と言われる)が欧米で人気を博したりした。日本でも一時期、タレントを部屋に監禁して24時間カメラを回しっ放しにするなど同様の傾向を持つ番組、『電波少年』が人気を集めた。これも監視社会の一つの相だろう。

プライバシーに敏感な反応を示し、監視されることを拒否する人がある一方、精神医学者の斎藤環らが指摘するように、他方では、「ポスト神経症時代」が出現しているのか、「見られても平気」「見られていようが行動を改めない」あるいは「積極的に見られていたい」人の数が増えているようにさえ思われる。

監視をどこまで認めるかというのは程度の問題となるだろうが、その面で、感覚だけで合意を形成するのは思いのほか困難である。敏感な人と鈍感な人で、監視されたくない人と監視されたい人とで、感覚が全く違うからだ。リアリティTVの出演者は、自分の家の中が監視カメラで覗かれてもいいと思うかもしれないが、そのような人は少数派であろう。セキュリティサービスにしても、玄関先や窓など家の外側から侵入してくるものの監視が中心となる。ここは手間がかかっても、監視のプラスとマイナスとを計算するという理性的な判断から合意を形成するほかはない。

私見を言えば、家庭の中にまで犯罪防止用のカメラを取り付けるのは行き過ぎであるが、公的空間、特に道路空間については監視カメラ等の設置は許容されると考えている。

自動車交通はむしろ匿名性が高すぎる。逮捕されない「轢き逃げ」犯がまだ大勢いること、犯罪の影にはほとんどの場合自動車があることを考えれば、Nシステムや監視カメラを使って公的空間である道路を監視するのは当然ではなかろうか。だが、路上の監視カメラについてプライバシーおよび肖像権の観点から反対の立場に立つ論者もいる。

監視をあくまで避け、安全よりプライバシーを重視する人々との合意を図るには、監視されないことによるマイナスのデータから説得するか、プライバシーを確保するのに金銭的な費用がかかる(例えば、商品を匿名で購買する場合には価格を上げる)という方法を取ることも考えられる。

一時期話題になった住民基本台帳ネットワークにしても、プライバシーへの「過剰」な配慮から掲載情報が制限され、結局あってもなくても同じようなものになってしまった。住基ネットは上手に活用すれば、情報共有によって行政のコストを削減し、国民に対して利便性をもたらす情報基盤となり得る。しかし、現在の住基ネットではほとんどメリットはない。住基カードの利用者が極めて少ないのも無理もないことと言えよう。ETCの利用者には割引があるが、住基ネットも使う側のメリットがなくては、無用の長物となってしまうだろう。

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「監視社会」への対策

「監視社会」の中で生き残ってゆくには、企業にしろ自治体にしろ、個人情報の保護をはじめとする情報セキュリティの確保は当然、前提条件となるが、それだけでは済まないような厳しい競争に晒されると考えた方がよいだろう。

犯罪学者の河合幹雄などが指摘するように(『安全崩壊神話のパラドクス』)、現在日本の犯罪率は、近年多少の上昇はあるにしても、例えば終戦時と比べてむしろ低い。それでも、あるいは、だからこそ、さらに一層の安全を求める声が高まっている。プライバシーについても同様のことが言える。現代日本は、相当プライバシーに配慮した社会になっている。長屋とワンルームマンションとを比較してみたらよい。それでも、顧客や住民の中には、「プライバシーに非常に敏感な人々」が存在する。より高い水準になってきたからこそ、さらに高い水準が求められている。こういう人は、監視されていることを嫌う。

言い換えると、企業をはじめ各種の組織体にとって、情報流出を防ぐセキュリティ等のための監視それ自体だけでなく、「監視社会」感、すなわち、「監視されているのではないか」という不快感を人々から持たれることも問題なのである。こうした不快感の大本には、情報の非対称性、組織が何か重要なことを隠して一般の人々を操っているのではないか、とする不信感がある。極端な例だが、「ユダヤ陰謀説」などが常に語られるのも、一般の人から見て、ユダヤ資本が何をしているのか見えにくい、ということがあるのではないだろうか。もっとも、大切なのは「信頼されること」である。メリーランド大学教授の政治学者ウスレイナーは、著書『信頼の道徳的基礎』の中で、経済的不平等が信頼を打ち崩すと論じている。

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「セキュリティの確保」と「積極的な情報公開」がカギ

信頼に特効薬などはないが、隠れて悪いことをしていないという印象を与えるためには、積極的な情報公開が最も基本である。企業や組織に都合の悪い情報は、どんなに隠そうとしても漏れてしまうものだと思った方がよい。特に、インターネット上の匿名サイトや、近年急増しているブログなどに漏れてしまったら、話に尾鰭がついて伝わってしまう。顧客に対しても、社員やアルバイトに対しても、何か怨みを買うようなことを行ったら、それがどこへ漏れるか分からないのが監視社会の恐ろしいところだ。

従って、他人の個人情報に対して敏感になるのはいいが、自分の情報については過敏になり過ぎないこと、情報を公開する必要性、隠匿したものが暴露された場合の不利益などを理解する必要がある。むしろ不利な情報をもオープンにした方が、顧客の同情を得られる場合が多いのだ。

企業のみならず自治体も競争に晒されている。「透明度の低い自治体」から「透明度の高い自治体」へ、わざわざ転入することさえ、意識の高い住民の場合には、ないことではあるまい。情報公開度ランキング(全国市民オンブズマン会議)で毎年上位に名を連ねる宮城県において、情報公開を進める浅野知事と、それに反対する宮城県警があったら、知事を応援したくなるのが人情だ。このランキングでは、警察の捜査報償費について公開が少ないことに苦言が呈されている。確かに、現在進行中の捜査についての情報公開は捜査に支障をきたす恐れがあるが、過去のものについて公開しない理由にはならない。例えば1年後に全面公開すると定めるべきだろう。

情報公開という点から言えば、この4月から施行された個人情報保護法は有害な面もある。この原稿に着手した8月3日に、読売新聞に「個人情報“過剰保護”、自治体で相次ぐ」との記事が掲載された。地方自治体では幹部の再就職先や、懲戒処分を受けた職員名、消防署では傷害事件の119番通報時間、出火場所の番地といった情報を秘匿するなど、法の趣旨を取り違えて「匿名社会」が拡がっている実情が明らかとなった。これでは住民の共感を得ることはできない。
誰がどこで見ているか分からない「監視社会」の中で、組織が生き残ってゆくためのカギは、「セキュリティの確保」と「情報公開」だと言えるだろう。

■「監視社会」における組織存続のカギ

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